ニュータウン再生への提言

 日本の高度経済成長時代の労働力の巣であった、全国に散在する「ニュータウン」は、長い年月を経、役目を終え、老朽化し、「オールド・ニュータウン」となっている。その実態について、どれだけの者がどれだけの現実を知っているだろうか。

 今回の事例は、東京都多摩市の多摩ニュータウンだが、ここもまた広大な山林、田畑をつぶし、労働者たちが眠るための団地主体の街を大急ぎで作った地である。量販店の参入で地元商業は廃れ、地場産業は起こらず、人々も建物も町も活力を失うまま高齢化してきている。
 若者たちは魅力に欠けるこの地を去ることを考え、入居率も、駅近辺はともかく、下がる一方。経済として機能できなくなった団地は転売か建て直ししか道がないと考えられている。多額の借金の残っている小中学の廃校は条件のいいところだけが売りに出されるものの(しかし、かんたんに買い手はつかない)、便の悪いところは、一部を市民や行政関連が利用するだけで、ほとんどが管理に費用のかかる税金食いの代物になり果てている。
 交通の便が悪く、消費者に購買を促すタイプの事業は、このような土地ではあまりにもロスが多くて長続きしない。商業やレジャー施設が栄えないからよけいにおもしろみのない町になっていく。あちこちに散在する遊休地(公団所有が多い)は中途半端な広さのものばかりで利用価値がないとされる。かといって市民農園や農地として利用できるかというと、使用権の問題があって容易に転用できないうえに、農地としては地価が高すぎ、また、建設廃棄物などが埋まっていたり水利がなかったりで、植物が育つ土地にするのは難しい。
 農業も工業も商業もここで発展するわけがない。生産の難しい土地柄で、人々は活気に満ちた、まさに生産的な活動などできるはずがないだろう。

 高齢化だからといって行政福祉サービスが整備されるかというとそうでもない。むしろ逆。高齢化対策の予算を削るという逆行政策のなかで、気を吐いているのは高齢者福祉関連企業と病院だけだ。介護保険にはどうしても限界があるから、市民の重い負担は避けられない。そういうビジネスチャンスの作り方はおかしいのではないか。
 お金のない人はどうするかというと、いつ空くかわからない特別養護老人ホームを待ち続けて最低の生活を送る。お金のない独居老人は、安い公団や都営住宅にでも入っていろ、ということなのだろうが、狭く、エレベーターもなく、買い物もできないところで、どうやったら介護ができるのか。特養にようやく入れたとしても「人間としての扱いではない」と嘆く家族の声を多く聞く。その一方で、うまく生活保護をもらって、結果的に何百万円も貯め込んだという話も聞く。そこに政治家がかんでいるケースもあると聞くが、これはきわめて信憑性が高い話だ。

 多くの人は実態をよく知らないし、税金が給料から天引きされているから、税金の使われ方に対する意識も高くなりにくく、さほど痛みも疑問も感じない。市民がずいぶんのんびりしているから、行政や政治家や学者(一部)の言うこともしゃれている。「多摩は緑の多い、いい町。人口も多いし、お金持ちも文化人も、税金もいっぱい。(バブルに乗って)贅沢な施設がいっぱいあって……でも多摩は贅沢すぎる。ちょっと作りすぎてもったいない。もったいないけど、贅沢だけど、使われていない施設の維持に税金を使うのはもっともったいなくて無駄だから、取り壊して、そこに森をつくりましょう。里山、里山。元に戻すのがいちばん…。それが自然を大切にするということ、多摩を豊かにすること! 仕組みさえつくればお金は落ちますよ…」。少々下品だが、○○じゃなかろか、と、自分の心のどこかに声が聞こえる。何か、はき違えていないか?
 これは一例…しかし象徴的な一例…にすぎない。「ニュータウン」の前に別の地名をつけても大同小異だろう。あるいは、今はそうでなくても時が経てば同じことが全国各地に当てはまってくるような気がしてならない。いや、そうなってはならないはずだ。
 放っておけば、地の利のない古い賃貸団地は家賃を下げても借り手がいなくなり、分譲住宅は資産価値がどんどん下がって売るにも売れなくなる。いや、もうそうなってきた。二束三文で売っても老後が心配なだけ。

 いわゆる「計画経済」とはいったん動けば歯止めが効かなくなり、したがって柔軟さに欠ける。多少の問題点は大勢に影響がなければ黙殺されるか取り繕われる。「都市開発」とはそのように進んできた。「計画」は終わらない限り方向転換もありえない。しかし何十年も経つうちにいろいろと技術も進歩しユーザーニーズも見えてきて、多少、見栄えはよくなる。しゃれたような、しかし、中身を伴わないキャッチフレーズも飛び交う。見栄えだけよくなっても、ネーミングを変えても、根本は変わらない。根本が変わらないから街全体はいつまでたってもちぐはぐだらけで、政治も行政も経済も人々も変わらない。変わらないまま廃れてきたのが、あるいはもっと辛辣な言い方をすれば、計画が終わった頃に中身から腐りはじめてきたのがこのベッドタウンだと筆者は受け止めている。

 ここにひとつの方法を提案している一級建築士がいるので紹介する。かつては多摩ニュータウンの開発にもかかわり、現在、自らも団地に居住している。それはすべての解決策ではないが、問題解決の可能性を秘めていると思われる。

 おおまかには次のようなものだ。

 多くの団地に当てはまる「エレベーターなし5階建て」をまず改善。住民がお金を出し合って「共有資産」であるエレベーターをつける。増築して居住空間を広げ、同時に各階の「横通路」を設置する。水光熱を徹底的に改善し、バリアフリーを導入する。オプションで内装はもっとおしゃれにも高級にもなる。ついでにITインフラの整備やITを利用したいわば「インテリジェント団地」の構想へも発展する可能性をもっている。しかも、これはすべて住みながらのリフォームであり(多少、音は辛抱するが)、個人負担は基本で700万円程度という。しかも、建て替えのような膨大なゴミは出ない。また、一時住み替えや業者の上乗せのような余分な経費も出ない。つまり、余計なものがまるで出ないということだ。また、団地というまとまった人数を擁する地区をターゲットにした事業やサービスを自由化・展開すれば、それなりに効率のよい経済効果も生まれる。

 コンクリートの強度はほぼ100年かけて強化しつづけ、その後きわめて徐々に弱まっていくという。数十年で取り壊すのは業者の都合で、たかだか3、40年の建物を取り壊すのは‘もったいない’の一言に尽きるという。現地に住む専門家ゆえの発想である。

 このような構想を実現化するのにまず必要なことは住民の理解と同意を得ることであり、住人の意識を改革していくことが第一義という。人が集まっているだけに、共有の社会的価値(社会資産)と個人の生き方が共鳴すれば、よいコミュニティーを形成できる可能性を秘めている。
 団地というのは、さいわいにして、いずこも広い共有地を有しており、よいコミュニティーを形成できれば、たとえば、欧米で営まれているようなコミュニティー・ガーデンを、住民の共同出資またはボランティアで運営することが可能になる。そして、農園芸の手法を間違えさえしなければ、参加者達はたとえ少しずつでも、農薬を使わない、高品質で新鮮な野菜やフルーツを口にすることができる。美しい花やハーブ、薬草を栽培することもできる。人々は中空に住みながらも自然にじかに触れ、土に生きることができる。場合によっては、自分たちが食べる野菜ぐらいは自給することもけっして夢ではない。野菜や穀類ができれば、調理の仕方や保存食あるいは調味食材の作り方を教え合い、後世に伝えていくこともできる。世代間が触れ合い、コミュニケーションが生まれ、助け合う。

団地の住みながらリフォームは、ただ、不動産の資産価値を高めるだけにとどまらないものであるということだ。もちろん、その資産価値が高くなるのは住民にすれば嫌なことではあるまい。ただ、有形・無形の「資産」という価値観念が、本来の生命の営みにどれだけ必要なものかは別問題だ。人々が最小限必要なもののなかから、正しく生きていける空間を作っていくのは、個人の意識の問題であり、次元の違う問題である。

 詳細は、以下を参照。




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